呉爾羅―大戸島奇譚―


「呉爾羅−大戸島奇譚−」  上巻

大戸神社に奉納されし「大戸島縁起」に曰く、
「海の彼方に呉爾羅なる神が住む。この神は海に住む神なれど、時折供物を求めて人の住む里
まで来り。里の翁曰く、海の恵み長く無きとき、呉爾羅様が来れりといふ。
呉爾羅様、島の牛馬、里人を求めたり。神楽を納め、婚礼前の女を呉爾羅様に捧げることのみ
にてこの神を慰めたりといふ」

元和二年頃、大戸島集落には100人ほどの村人が生活していたという。彼らは漁とわずかばか
かりの面積の田畑にて生計を営んでいた。
本土とは遠く離れており、二代将軍秀忠の治めるところとなった江戸幕府の威光もこの島には何
の関係も無かった。
黒潮の流れが豊かな漁場を育み、貧しいながらも自給自足の暮らしがここではなされていた。

その日も、朝早くから集落の男たちは漁に出ていた。ここ10日ほど不漁が続いていたため、 舟は
いつもよりも沖合いで網を打っていた。
「魚どもはどこにいっちまったんだろう?」
「まるで、ごじら様が食っちまったみてえだな」
「ごじら様ぁ?馬鹿をいってるんじゃねえよ」
「馬鹿なもんか。俺の祖父さんがよく言ってたぞ、魚どもが急にいなくなるのはごじら様が海の中で
やつらをとっ捕まえてるからだとな」
「だったら、お前ぇの娘を差しだして、ごじら様に帰ってもらわねえとな」
「おいおい、やめてくれよ!」
男たちの笑い声が上がった。
その時、打っていた網が海中から強く引かれ、舟が大きく揺らいだ。
「おお!」「なんだぁ!」
「いるかかくじらでも引っかかったか?」「網を引いてみろ!」
引き上げられた網には、何の獲物もかかってはいなかった。
「おい、これ!」
一人の男が網の一部を指し示した。網はその部分が大きく裂けていたのである。
「鰐(鮫のこと)でもいるのかなあ」「やなこというんじゃねえよ」
「とにかくこれじゃあ網はだめだな。俺達は戻って銛でも打つとしよう」
網が破れた舟は、他の舟を残して島へと引き返しはじめた。

だが、その舟は2度と島へは戻ってこなかった。

集落から外れたところに、一人の男が暮らしていた。名を佐々天一郎高久という。元は里見家に仕
えた武士であったが、里見家が安房国を没領されたときに職を捨て、この島に居を構えて いた。
寡黙な男であまり多くを語らなかったが、村人たちの困り事の相談に乗ったり、子供たちにものを教
えたりしていたため、村人たちからは「離れの先生」として慕われていた。

一月前、漁に出た舟が一艘行方不明になったのに続いて、またも漁に出た舟が浜へ戻ってきていな
かった。
だが、今回は浜に一人、そして岩場に流れ着いた舟の中に一人の亡骸が見つかったのである。
天一郎も村人に呼ばれて、変わり果てた2人の漁師の骸をそれぞれの家まで運んだ。
「これは、やっぱりごじら様がやってこられたんではなかろうか?」
「魚どももさっぱり獲れなくなっちまってるしなぁ」
村人たちはそう噂しあった。だが、そういいながらも村人は呉爾羅が来てはいないことを願った。なぜ
なら、呉爾羅を鎮めるためには村の女を生贄として捧げなければならない、とされていたからである。

舟にいた漁師を他の村人とともに運んでいる途中、天一郎はおかしなことに気がついた。その漁師は
舟の中で血まみれになって絶命していたが、その傷は何かの生き物につけられたものではなく、筋の
ごとき「刀傷」であったのだ。
すぐさま天一郎はもう一人の男の亡骸を検分しに走った。
その骸は数日間水に漬かっていたためすっかり形が崩れていたが、やはり腹部に刀傷らしき筋が走っ
ていた。
天一郎はその事を訝しんだ。

その夜は、時折激しい雷鳴が轟く豪雨となった。通夜から戻った天一郎は、行灯の明かりの下で書を
読んでいた。ごうごうと雨足は強くなる一方で、当面止みそうな気配はなかった。
障子を通して蒼白い光が書を照らしたかと思うと、どぉーんという音があたりを震わせた。
「これはすごいな」
誰に言うとも無く天一郎は呟いた。
そして、また障子の向こうが蒼白く光った。天一郎はふとその光のほうへに目を向けた。何かが障子
に影を落としたような気がしたのだ。
天一郎は素早く行灯の明かりを落とすと傍らに書を伏せ気配を探った。
強い雨音の中、「ばしゃっ」という音がしたのを天一郎は聞き逃さなかった。天一郎は刀をとると柄に
手をかけ、腰を落とした。
「佐々天一郎高久殿か?」何者かが外からそう問いかけた。里の者の声ではない。
「元里見家剣道指南役佐々天一郎高久殿かと聞いておる!」再び外から問いかけがあった。
天一郎は柄に手をかけたまま、部屋の中心まで動いた。
「何者か?」天一郎もそう問いかけた。
「御主に尋ねたい儀が在る!我らとご同行願いたい!」
天一郎はしばしの沈黙の後、答えた。
「断れば何とする?」
「供に来てもらうまで!」そう答えるやいなや、外にいた者は戸を蹴破り屋内に駆け込んできた。
雷光がその姿を照らし出した。頭巾に覆われ眼だけしか見て取れない顔、手甲と足甲をつけ、機敏な
動きに応じられる身形。その手には刀が握られていた。
「御役目を捨てた私に何の用向きだ?」
「戯言を!覚えがあろう」
「はて、何かな」
さらに二人の者が屋内に入ってきた。じりじりと間合いが詰められて行く。
「おとなしくわれらと来れば良し。刃向えば手足の一本など戴くぞ」
天一郎はすらりと刀を抜き、下段に構えた。
「何が所望か?」
「里見家再興の秘を知りたい」
「里見家再興?私はもう里見家とは縁の無い者だ。再興などという戯言は・・」
「それはご同行願ってからゆっくりと尋ねるとしよう」
「そうか、御主等は江戸の・・・」
その時、光と轟音とが同時に起こった。落雷で近くの木が燃え上がった。
一瞬の隙をついて、天一郎は裏戸より外へ走り出た。すぐさま後を追う三人。
だが、天一郎は逃げたのではなく、戸外へでるとくるりと向きを変え追っ手に向き合った。
天一郎の住まいの裏戸は狭く、3人同時には出てはこられない。
天一郎の刀が一閃した。そして、また一閃。二人が泥の中に崩れ落ちた。
「御主は帰れ。そして伝えよ、里見家再興の秘などは夢物語だとな」
天一郎は刀を鞘に納め、そう言った。
「問答無用!」
残る一人はそういうと、天一郎に切り掛かった。
だが、天一郎の動きの方が疾かった。わずかに横に動き刀を抜き放つと、男の首が六尺ほども跳ね上
がった。
頭を失った身体は、鮮血を迸らせながら二、三歩走りそして倒れこんだ。
天一郎は刀から血を振り払うと、鞘に収めた。

住まいに戻りかけた天一郎の耳に、雷鳴とは違う、獣の咆哮が聞こえた。その声の方を見た天一郎は
思わず呟いた。
「なんと・・面妖な・・・」
今まで見たことも無い十尺以上もある不思議な獣の姿がそこにあった。稲光に照らされたそれは、黒く
ごつごつとした岩肌のような皮に覆われ、背には割れた瓦のようなヒレがあった。
二足で立ち、その尻尾は高く持ち上げられていた。そして鋭い牙をむき出した顎が牛の身体を咥えあげ
た。獣は獲物を咥えたまま、走り去った。
天一郎は先ほどの死闘のことも忘れ、豪雨の中に立ちすくんだ。

夜が明ける頃、豪雨は収まった。天一郎は襲ってきた三人の事、そして闇の中に顕われたあの不思議
な獣のことを考え、眠ることができなかった。
「徳川の手の者が私の居場所を突き止めたとなると、あの三人だけでは済まぬかも知れぬな。村の者
を殺めたのも恐らくは彼奴ら・・・」
亡骸となって浜へ戻ってきた漁師たちの無念を思い、天一郎は手を合わせた。彼等はあの武装の男た
ちが島へやってくるのをどこかで見かけてしまったに違いない。
「それに、あの面妖な獣。あれが村の者のいう呉爾羅なのか・・・?」

あたりが明るくなり、天一郎は住まいの周りを探索した。だが、切り捨てた三人の骸以外は何の痕跡も
見つけることはできなかった。
天一郎は骸を林の中に始末すると、集落へと向かった。村長のところで呉爾羅のことを尋ねるつもりで
あった。

だが、集落へ来た天一郎は思いもかけぬ惨状を目の当たりにした。家々のいくつかが傾き、崩れ倒れ
ていた。そして、崩れた家の下敷きになり死んでいた村の者もいたのだった。
「これはなんとしたこと!?」
「せんせい!おれたちもいったいなにが起こったんだか・・・」
「夜中に大きな音がしたかと思うと、悲鳴があがったんだ」
「飛び起きて見てみると、この有様で・・・」
「それに、家だけじゃねえんだ。牛が二頭いなくなってる。そこも血の海だ」
天一郎は、牛が飼われていた小屋へと向かった。小屋の木板が引き剥がされ、中には牛のものあろう
血が一面に飛び散っていた。
犠牲を免れた牛たちはまだ興奮しているのか、盛んに鳴き声を上げていた。
「これは・・・」
小屋の中に、大きな鉤爪で引っかいたような傷が残されていた。

「ごじら様が来なすったんじゃ」村の古老がそう語った。
「わしが子供の頃、じい様に聞いた話にそっくりじゃ。じい様がまだ小さかった頃ごじら様がこの島へ来な
すって、やはり牛を食らっちまったそうだ」
「ごじら様が・・・」
村長の家に集まった人々はざわめいた。子供等は親にしがみつき、大人たちは顔を見合わせた。
「どうすればいいんじゃ!?」
「これでは、恐ろしくて海にも出れねえ!」
「ごじら様を鎮めねば・・・!」

天一郎は村人たちの傍らに座り、その話を聞いていた。
「じい様、昔、呉爾羅様が来たときは、どうやって鎮めたのか?」
天一郎は古老に尋ねた。皆の視線が一斉に古老に集まった。
「そのときは・・・、大戸神社に神楽を奉納したそうじゃが・・・」
「生贄を捧げたんじゃねえのか?」一人の男がそう尋ねた。
「そう聞いておるが・・・、なにを捧げたのかはじい様も知らなんだそうじゃ」
「若い娘じゃ!おれはそう聞いているぞ!」
「そうじゃ、みな童子のころにそう聞いておる!悪さをすると、ごじら様に食わせちまうってな。ひとを生贄に
したんじゃ!」
再び、村人たちはざわめいた。

「いけにえ、いけにえというが、じゃあ誰を生贄に差し出すというんじゃ?」
村長の問いに村人たちは静まり返った。
「まだ三つになったばかりのお前のところの娘か?」
一人の男を指差し、村長が問い掛けた。その男の傍らにいた女房が娘をきつく抱きしめた。
「そんな・・・・!」男は絶句した。
「それではお前のところの娘か?」村長は、また別の男を指差した。
「そ、そんなことできるわけねえ!」
その男も叫ぶようにそう答えた。
「そうだ、誰を選んでも不憫なことには変わりねえ」
「いや、ひとりおるぞ!」 ひとりの男が、村長の言葉を遮るように言った。
「たまきじゃ。たまきならば・・・」

漁に出たまま帰ってこなかった男たちの中には、子を持つものもいた。その一人がたまきの父親だった。
ただ、この親子は父と子の二人暮しだったのだ。
その父親もなくしたたまきは、今は巫女として、大戸神社の神主のもとに引き取られていた。

「たまきならば、哀しむ親も兄弟もいねえ。可哀相じゃが、村のために因果を含めて・・・」
「馬鹿を言えっ!」
天一郎は、思わずその男を怒鳴りつけた。
「よいか、生贄だの呉爾羅様鎮めだのとお前等はいうが、あの神様がそれで鎮まるという保証はあるの
か!?」
天一郎は一同の顔を見まわしながら続けた。
「私は昨晩、呉爾羅様の姿を見た。だが、あれは神様というよりも物の怪だ!ただ、食い物を求めてこの
島へやってきただけなのかも知れん。そのようなものが、娘を捧げたことで鎮まるなどとは私には到底思
えぬぞ」
「せんせい、そうは言うがごじら様の御怒りが鎮まるまで、わし等は海に出られん。そうなりゃわし等はど
うなる?磯の貝や蟹だけでは暮らしてはいけないんじゃ」
「そうじゃ、島の者皆が飢えてしまうわ!」
「ごじら様が鎮まれば、また漁ができるようになるんじゃ」
村人の中で血の気が多い者たちは、天一郎に食って掛かった。
「あんたは、ごじら様を見てどうした?恐ろしくて手も足も出なかったんではないのか?」
今や、村人たちは騒然となっていた。

「神楽を執り行う」
戸口のところに立った男がそう言った。白い着物に白袴。大戸神社の神主であった。
「村長、今晩にでも呉爾羅様鎮めの神楽を執り行おうと思う。村の者皆に準備をさせて欲しい」
神主はそう村長に頼んだ。
「それから、せんせい。後ほど村長と供にわしのところへ来てはくれまいか」
まだざわめく村人を後に神主は家を出ていった。

一刻ほど後、村長と天一郎とは、生贄をと騒ぐ村人たちを何とか説き伏せて神楽の準備に当たら
せ、二人は神社の社務所にいた。
そこにはたまきも同席していた。たまきは今年十四になる娘で、やや浅黒い肌だが、黒くぱっちり
とした双眸で、島の娘の中では一、二を争う器量良しである。父親を亡くした悲しみを気丈にも耐
え、今は巫女としての修行を行っていた。

「で、わしらを呼び出した訳は?神楽のことでなにかあるのか?」
たまきの入れた茶を啜ると、村長が切り出した。
「村長、呉爾羅様鎮めの作法、存じておられるか?」
神主がそう問い返した。
「作法?確か・・・、神楽を納め、其の後に婚礼前の娘を筏に乗せ沖へ流すとか・・」
「うむ、この神社に残された文書にもそのように書かれておる」
「では、やはり神楽の後にこのたまきを・・・?」
村長はたまきを見やりつつ、神主に尋ねた。たまきは三人とはやや離れたところに俯き加減でそっ
と座っていた。
「私は、生贄などには賛成できません」 天一郎は二人に向かってそう言った。
「天一郎殿、まあ落ち着かれよ。私もこのたまきを呉爾羅様にくれてやる気なぞまったくありません。
いや、たまきだけでなくこの大戸島の誰一人として生贄などに致すつもりはございません」
たまきはその言葉にはっと顔を上げた。
「天一郎殿は先ほど、呉爾羅様の御姿を見られたとおっしゃったが、いかがでしたかな、神様の御姿
は?」
「あれは・・・、神などというものでは無い。荒ぶる神といわれた素戔嗚尊命(スサノオノミコト)とてあ
のように異形の御姿はされていなかっただろう。あれは獣、そう、人知の及ばぬ処から来た獣か物
の怪の類ではなかろうか?」
「これを見てくだされ」 神主はそう言うと、一巻の巻物を広げた。
「これが残された文書じゃ。ここに天文七年とあるので・・八十年以上も前のものらしい」
そこには、以前呉爾羅が顕われたときのことが記されていた。
「ここに呉爾羅様の御姿が書かれておる。どうですかな天一郎殿、貴方が見られた呉爾羅様と比
べて?」
天一郎はその絵を見て、確信した。あの夜に見た異形の獣と同じものがそこには書かれていた。
「これは・・・」
村長も呉爾羅の姿に絶句した。
「私も昨晩この文書を見るまでは、呉爾羅様とは海におわす神と考えておった。しかし、このお姿は
神と呼ぶにはあまりにも恐ろしい。天一郎殿の言われる通り、まこと怪しき獣ではなかろうか」
「では、何故神楽を?」天一郎は神主に尋ねた。
「もし神でないのなら、神楽など執り行っても微塵の効き目もなかろうと思うが」
「いや、そうでもないらしいのじゃ。ここを見てくだされ」
神主は巻物の一部を指差した。
「神楽ノ調、呉爾羅様ヲ鎮メルコト灼(あらた)カ也、とある。呉爾羅様の御気を鎮めるために神楽が
執り行われたのではないかと私は思うのじゃが」
「では、生贄のことは?」
「ここに書かれておるが、呉爾羅様を沖へ、島から遠くへ導くために人を筏に乗せ流したのじゃろう」
「そうか、この島の遥か沖には大きな潮の流れがあって、そこまで行くと容易に島までは戻れなくなる
と云われておる」
昔、漁師でもあった村長はそのことを思い出し、語った。
「では、やはり呉爾羅様を導くために人を乗せた筏を流さねばならんのか?いや、人でなくとも・・・」
そこで天一郎は何事か思案を始めた。
「天一郎殿も私と同じ事を思いつかれたか。そう、人でなくともよいのかも知れん。人形(ひとがた)を
筏に乗せ沖へ流せば、或いは」
「呉爾羅様もそれを追って沖へ、か。そううまく行けばよいが・・・」
「わしも、出来ることならば村の者を人身御供に出すなどということはしたくないんじゃ。せんせい、こ
こは神主殿の言われる通りにしてみようではありませんか」
村長の言葉に天一郎はしばしの間、逡巡した。
「うむ、生贄を出さずに済むならば、やるだけの事はあるな。たまき、神主殿の知恵に救われたの」
天一郎がそう言って笑いかけると、たまきもにこりと笑いを返した。
「では、せんせい、わしらも神楽の準備にかかりましょう」
村長と天一郎は座を立った。だが、天一郎は先ほどの巻物にふとおかしなものが書かれているの
に気がついた。
「神主殿、これは何が書かれているのであろう?」
そこには、天照大神にも似た、輝く女神の姿が描かれていた。
「これは・・・、この島の守り神である天后様ではないかと思うのですが、それ以外はなんとも・・・。
恐らく神楽の折に、誰かが天后様の役どころをしたのでは?」
神主にもはっきりしたことはわからなかった。

村のほうへ戻っていく天一郎たちを蔭から見つめるものがあった。
「佐々天一郎高久、次は前のようにはいかぬぞ・・・」
その男はぼそりと呟いた。

同じ頃、村人たちは神楽の準備にかかっていた。その中に作業の手を休めてひそひそと話をする
男たちの姿があった。天一郎に怒鳴りつけられた男もその中にいた。
「村長はどうするつもりなんだ?あのせんせいの言うことを聞いて、生贄を出さねえつもりか?」
「しかし、生贄を出さねばどうなる?また、誰かが餌食になるかもしれんぞ」
「たまきひとりで、村ぜんぶが助かるのなら・・・」
「しかし、せんせいがそれは許さねえだろう。さっきの剣幕では」
「あのせんせいは、しょせんよそ者よ。ほんとに村のことを考えたら、あのような物言いはできんは
ずじゃ」
「では、どうする?神楽はもうじきじゃ」
「うーむ、そこよ。なんとかせんせいの眼を盗んでたまきを連れ出す算段をしないと・・・」

「あんたたちっ!いつまで油を売るつもりだいっ!?」
一人の男の女房が遠くから男たちを怒鳴りつけた。男たちは目配せをして、それぞれの持ち場へ
と戻っていった。

やがて、あたりが夕闇に包まれる頃、村のあちこちで篝火が焚かれた。大戸島呉爾羅神楽のはじ
まりである。
神楽が執り行われる大戸神社は、村と浜を見渡せる八幡山の中腹にあった。村のものたちは手に
手に灯かりをもって、山道を神社へと向かっていた。
昼間、好からぬ企みを案じていた男たちもその行列のなかにいた。と、そのうちの一人が小用のた
め、脇道にそれて木立のほうへと歩いていった。

「ふーっ」
小用を終えた男は、前を戻すと先ほどの道を戻りかけた。その男の背後でがさがさっという音が鳴
った。男はその音に立ちすくんだ。
「な、なんだ?狐か?」
男は手にした灯りを音のした方へかざした。しかし、猫の子一匹そこにはいなかった。
「お、脅かすんじゃねえ!」男はあたりをきょろきょろと見まわした。
灯りの届くところに何もいないのを確かめると、男は一目散に駈け出した。
その男の目前に、まるで、暗闇から生まれたように突然二人の黒装束の者が現われた。
「ひいっ!」
男は須頓狂な声を上げると、ぺたりと尻餅をついた。続いて、男の背後からも三人の者が現われた。
「ひええ、お、お助けを・・・」
男は両手をこすり合わせて懇願した。黒装束の一人がその男へ低い声で語り掛けた。
「そう怯えずともよい。御主に頼みたいことがあるのだ・・・」

大戸島に神楽の夜が来た。神楽を舞うものは、天狗を模した面と烏帽子をつけ、境内へ進み出た。
笛と太鼓が奏でる調が流れ出すと、六人の舞手は静かに踊り始めた。

天一郎は、神主と村長、それにたまきとともに篝火の下に座し、神楽を見つめていた。揺れる炎
が、たまきの顔に深い彫をつくり、幻想のようになんとも形容し難い美しさを創り出していた。

村人たちも皆無言のまま神楽をみつめていた。親は子供の手をぎゅっと握りしめ、両手にあぶれ
た子らは親の着物にしがみついていた。
やがて、神楽舞は舞台を降り、参道へと進み始めた。大戸島呉爾羅神楽は、舞台だけで舞うもの
ではなく、参道から浜まで踊り進むという特色を持っていた。そして、浜へ着き、最後の舞いのあと、
そこから筏を沖へ流すものとされていた。本来は若い娘を乗せるその筏には、神主や天一郎の出
した考え通り、白装束を着せた木の人形が乗せられていた。筏を流す際にはこれに、牛の肉が積
まれる予定だった。

参道で舞いを続ける六人の舞手がゆるゆると歩を進め始めた。村人たちもそれに続くように進み
出した。
「では、私たちも」村長が天一郎たちを促した。
三人は進みかけたが、そこでたまきがまだ座ったままなのに気がついた。
「たまき、どうした?」神主がたまきに呼びかけたが、たまきは空の一点を見つめたまま微動だに
しなかった。
「おい、たまき」
天一郎がたまきの肩を揺さぶった。だが、たまきはじっと座ったままである。
「これはどうしたこと・・・」
「・・・神懸りじゃ!」
困惑する天一郎に、神主が答えた。だが、神主とてこのような怪事に遭遇するのは初めてだった。
「たまき、おいたまき!正気にかえれ」
天一郎はぱんぱんとたまきの頬を軽く叩いた。しかしたまきの正気は戻らない。ふと、天一郎は
たまきが何かを語っているのに気がついた。
「・・・・・・した」
「たまき、何を言っている?」
「・・・がき・ました・・」
「何だ?何がきたのじゃ?」

参道を浜のほうへと神楽は進んでいた。そこからは浜とそれに続く海とが見渡せた。海は今夜の
月明かりに照らされ、波頭には海蛍の蒼い灯かりが燈っていた。
「おい、あれ・・」
海を見ていた村人の一人が沖の方を指差して言った。その指の示す先に、月明かりに蒼く照らさ
れた岩のようなものが浮かび上がっているのが見えた。
「あんなところに岩礁があったか?」男は隣にいた漁師仲間に問い掛けた。だが、その男が答え
る前に、その岩が浜へと向かってすうっと動いたのだ。
「おい、ありゃあ!」「ごじら様だっ!!」たちまち村人は騒然となった。
「おいっ!あそこにもなにか見えるぞ!」
その声に、何人かがそちらのほうに目を凝らした。そこにも、蒼く照らされたごつごつとした岩のよ
うなものがもうひとつ見えていたのである。

たまきは、すっと立ち上がった。
「呉爾羅がきました」今度ははっきりと聞き取れる声でそういった。
「なんだと?ごじら様が!」村長が聞き返した。 たまきはまだ、空のあらぬ一点を見つめていたが、
その表情は決して呆けているようではなく、
むしろ普段の顔つきよりも厳しく凛としていた。
「たまき、なぜそのようなことを?」天一郎はたまきに尋ねた。天一郎たちのいる場所からは死角
になって麓のほうは見下ろせないのだ。
「おい、皆がこちらへ戻ってくるぞ!」神主が参道を見て叫んだ。

「ごじら様じゃ!ごじら様がまた・・・!」村人たちが口々にそう叫びながら、神社へと駆け戻ってき
た。親に手を引かれた子供たちは怯え泣き喚いていた。
「村長!たまきを頼みます!」天一郎はそう言うや否や参道を駆け下りていった。

あの晩、天一郎が見た怪しげな獣が、今や浜へと上がりつつあった。浜には神楽の最後の舞いの
ため、たくさんの篝火が用意されていた。その炎に照らされた呉爾羅は、まさに神というよりも
悪鬼そのものの姿をしていた。
黒く岩のような肌。鋸のような鋭い歯がならんだ口と、牛馬と違い人のように顔の正面近くについた
二対の眼。但し、その瞳にはなんの表情も浮かんではいない。そしてその頭部を支える太い首が続
いていた。四本の指と鋭い爪を持つ手。身体を支える太くがっしりとした脚にも、鋭い鉤爪を持つ指
があった。身体と同じ位の長さをもつ尻尾はぴんと空へ持ち上げられていた。
首の中ほどから尻尾にかけては、薄い岩のような鰭が並んでいた。

呉爾羅が天に向かって一声吼えた。その声は聞くものの魂を萎えさせるような恐ろしげな声であった。
篝火の番をするために浜にいた何人かの村人は、ぽかんと呉爾羅の姿を見ていたが、その声を聞い
たとたん我に帰り叫び声を上げて四方へ駈け出した。

一人の男が、浜の外れに設けてある櫓台に上り半鐘を打ち鳴らした。
「ごじら様じゃー!ごじら様じゃー!」男は必死で叫んだ。
半鐘の音に呉爾羅が振り向いた。呉爾羅はその音へ向かって地響きを立てて駈け出した。
「うわー!」男が叫ぶのと呉爾羅が櫓台に体当たりするのが同時だった。櫓が根こそぎ倒され、体勢
を崩した男はそのまま地面に叩きつけられた。
這いずるように逃げるその男に向かって、呉爾羅が牙を剥き出した。

「なんと酷い・・・!」その有様を見た天一郎は言った。
「これでは、神楽どころじゃねえ!」同じく浜の惨状を見ていた村人も叫ぶように言った。
「それにせんせい、あそこをみてくれ!」村人は沖を指差した。「あれは!?あれも呉爾羅様なのか
!?」天一郎は身を乗り出した。
海から頭をもたげたもう一つのそれは、浜を蹂躙している呉爾羅よりも更に巨大な姿をしていた。
「あれは・・・、浜の呉爾羅様がまるで子供ではないか!」月明かりに照らされた海の呉爾羅は、しか
し、陸へは上がってこようとはしていなかった。
「ありゃあ、くじらほどもあるんじゃねえか?」村人が言った。
「とにかく!筏を流して、呉爾羅様を沖へ誘わねば!」天一郎は浜への道を降りていった。

浜から上陸した呉爾羅は、村のほうへと向かっていた。其の進む方角には、先日襲われたものとは
別の家畜小屋があった。
参道から浜へと降りてきた天一郎は、丁度呉爾羅の背面の場所に出た。天一郎は砂浜を筏の置い
てある場所へと走った。そこには、六本の篝火の準備がされていたが、火は未だ入れられてはいな
かった。
白装束を着た木人形の乗った筏を海へと押し出すと、天一郎は陸の呉爾羅に向かって声の限りに
叫んだ。「おーい!ここだー!」
だが、呉爾羅には聞こえないのかその歩みは止まらなかった。
「くそっ!」まだ火の燈っている篝火へと天一郎は向かった。そして、一本の篝火を肩に担ぐと、六本
の篝火のところへ戻って火を付け、さらに筏を追って海へと駆け込んだ。
天一郎は腰まで海に浸かりながら、必死に篝火を振り回した。
「おーい、ここだー!生贄の筏はここにあるぞー!」海からの風に煽られ、炎が燃え上がった。
その時、沖にいた呉爾羅が炎に気がついたのか、天一郎のほうへ頭を向けた。そして、陸の呉爾羅
よりも更に大きな鳴声を上げた。

陸の呉爾羅は、その声に歩みを止めた。そして、浜のほうへと引き返しはじめた。
「しめた。こちらへ来るぞ」天一郎はさらに大きく篝火を振った。だが、天一郎の後方、沖の呉爾羅も
また天一郎へと向かって動き始めた。
「ちいっ!これでは挟み撃ちになるぞ」陸の呉爾羅は、もう波打ち際に脚を踏み入れようとしていた。
そして、海の呉爾羅もかなりの速さで天一郎に迫っていた。
「くそっ!お前等の獲物はこっちだろう」天一郎は篝火を筏へ放り出すと、波打ち際と平行して泳ぎ始
めた。放り出された篝火は筏の上にばら撒かれ、次々と波を被って消えて行った。
着衣のままの天一郎は、海中で懸命に泳いだ。だが、着物が水を吸いうまく進むことができない。そ
こへ浜と海の両方の呉爾羅が迫っていた。
天一郎の肺は焼け付く様であり、手足は鉛のように重くなってきていた。
「ここまでか!?」天一郎は心の中で、覚悟を決めつつあった。

先ほどから同じ姿勢のままじっとしていたたまきが突然右腕を肩の高さまで持ち上げた。
「たまき?」しかし、神主の呼びかけにはたまきは答えないままだった。
たまきは、一旦動きを溜め、右腕をそのまますうっと頭上へ持ち上げた。

筏の上に天一郎が投げた数本の篝火の燃えさしがあった。それらは波風を受けて、ほとんど火の気
は残っていないはずだった。だが、突然その燃えさしから激しい炎が吹きあがった。それはまるで、
硫黄が燃え上がるかのごとく激しい炎だった。

「たまき・・・!お前!?」村長がたまきの異変に気づき、驚きの声をあげた。たまきの身体のまわりが
ぼうっと淡い光に包まれていたのだ。
「これは?なんということ!」神主もたまきから放たれる光に気がついた。その光は篝火や蝋燭からの
光と違い、まったく熱さというものを持っていなかった。それは例えるならば、蛍の放つ光に似ていた。

筏の上の炎は、燃え広がり木の人形を包み込み、筏の炎は周辺を明るく照らし出した。その炎に気が
ついたのか、二体の呉爾羅が動きを止めた。しばしの間炎をみつめていた二体の怪神は、突如向きを
変え、筏を追いかけ始めた。
天一郎は、呉爾羅から逃れるために必死で泳いでいた。そして疲労困憊して波打ち際まで辿りつくと、
砂浜へ倒れこんだ。
「呉・・爾羅様・・は?」荒い息をつきながら天一郎は海のほうを振り返った。遥か沖に炎に包まれた筏
が見え、その炎を追うように二体の呉爾羅が遠ざかっていくのが見えた。
「助かったのか?」天一郎は信じられぬという顔で沖を眺めていた。

たまきは、突然どさりと地面に崩れ落ちた。と同時にたまきを包んでいた淡い光も消えてしまっていた。
「おい、たまき!」「たまき大丈夫か?しっかりせい!」神主が倒れたたまきを抱き起こした。
しかし、たまきはすっかり正気を失っていた。
「おーい!大変だぁ!ごじら様が沖へ遠ざかっていくぞ!」参道から浜のほうを眺めていた村人の一人
がそう叫びながら神社へと戻ってきた。
「それに、せんせいが浜に倒れとる!早く行って助けねえと!」「なに?せんせいが!?」
村人の何人かが浜へ向かって駈け出した。
「これはいったいなにが起こったんじゃ?」村長は首を捻った。

村人の輪からすこし外れたところに、幾人かの男がいた。それは、昼間よからぬ相談をしていた
あの男達だった。その男達は何事か言い合うと、目配せして浜と逆の方へと降りて行った。


大戸島奇譚 下巻へ             TOPページに戻る