「呉爾羅−大戸島奇譚−」 下巻
神楽から一夜明けた次の朝、天一郎は村長の家で眼を覚ました。
「ここは?」天一郎は天井の大きな梁を見上げて、ぼそりと呟いた。首を回して横を見ると、隣の布
団にたまきが横たわっているのに気がついた。昨夜の巫女の衣装のままのたまきは、静かな寝息
を立てて、まだぐっすりと眠っているようだった。
天一郎は、夕べのことはあれは夢であったのかとふと考えた。だが、手足に残る重い疲労が、昨夜
の出来事が夢ではない事を天一郎に教えた。
「おお、せんせい。気がつかれたか」そう言うと、障子を開けて、村長が部屋へと入ってきた。
「村長、私は?呉爾羅様はどうなった?」天一郎は布団の上に身を起こして村長に尋ねた。
「せんせいが筏を海へ流してくれたお蔭で、とりあえず呉爾羅様は鎮まってくれたようです。今のとこ
ろは何も変わったことは起きておりません。ただ、夕べは一人村の者が呉爾羅様の贄にされてしま
いましたが・・・」村長は畳に目を落としてそう語った。
「では、呉爾羅様は何処かへいってしまったのか?」
「さあ、夕べあれから村の者に海を見張らせておりますが、今のところ呉爾羅様の御姿は見えており
ません」
「そうか。うまく沖の潮流れのところまで行ってくれたのであれば良いのだが・・・。ところで、たまきは
どうしたのだ?昨夜のあの異変は一体?」天一郎はたまきの方を見ながら尋ねた。
「それが、どうにも信じられないのですが、あの後突然たまきの身体に後光が差したかと思うと、これ
もまた突然気を失ってしまって。一体なにがなにやら・・・」
「後光?たまきに・・・?」
二人の傍らで、たまきはすやすやと眠っていた。
「神主が言うには、先だって見せてもらった巻物、あれにあった天后の御姿の様だと。いやはや、呉
爾羅様といい、まったく不可思議な出来事ばかりで・・・」
「真に。私もこのような事は終ぞ聞いたことも見たこともないわ」
「まあ、兎に角せんせいはもうしばらくお体をお休め下さい。なんと言っても村の救い主ですからな、
せんせいは。大事にせんと罰が当たる。ははは」
そう言うと、村長はまた部屋を出ていった。それにしても、と天一郎は考えた。あの時、確かに背後に呉爾羅様の気配があった。だからこそ、死
をも覚悟したのだ。だがこうして五体満足でいるところを見ると、呉爾羅様は自分を見逃してくれたら
しい。しかし、何故?
天一郎は、筏の上で起きた炎の奇跡にまったく気がついていなかった。「せんせい・・・?」じっと、腕組みをして思案していた天一郎に、たまきが声をかけた。
「たまき、気がついたのか。身体の具合はどうだ?」
「はい、別にどうという事も。でも、なぜわたしはここに?」たまきは、身体を起こして着ている物を整え
ながら天一郎に尋ねた。
「何も覚えておらんのか?夕べの事を」
「夕べ?確か、神楽を見ているうちに急に目の前が暗くなって・・・。その後のことは何にも」
「神楽の途中でか。では、後光のことは?」
「後光?わたしは、神様や仏様ではありませんよ」たまきがくすっと笑いながら答えた。
その屈託の無い少女の笑顔を見て、天一郎はほっとしたような心地になった。昼から、たまきは神主と共に大戸神社へ戻っていった。天一郎も、村人と神楽の後始末をし、呉爾羅
の犠牲となった者の弔いをすると、一旦村外れにある自分の小屋へと戻った。夕方近くになって、村の男が三人、天一郎の小屋を尋ねてきた。見るとその男たちは、神楽の前の日
に呉爾羅に生贄をと騒いでいた者達だった。
「おぬし等、何の用向きか?」
「いやあ、せんせい。わしら、せんせいに詫びを入れようと思いまして」「それに、村を救ってもらった礼
も」一人の男が、下げてきた徳利を天一郎に差し出した。
「それにほれ、これも」別な男が出した竹籠のなかには、雑魚が数匹びちびちと跳ねていた。
「これで、せんせいと酒を酌み交わそうと思いまして」
「このようなもの、別に私に気を遣わずともよいぞ」そう言いながらも、もとより村人とは懇意にしている
天一郎は、三人を小屋へ招き入れた。囲炉裏で焼いた雑魚にぱらぱらと塩をしたものを肴に、天一郎たちは酒を酌み交わした。男たちは漁
師だけあって、酒が入ると陽気になり、天一郎の活躍の様や、漁での苦労話などを談笑しあった。そし
て、そうするうちいつしか日が暮れようとしていた。
ふと天一郎は、自分が普段よりも酔っている事に気がついた。いや、酔っているというよりも、むしろ身
体が麻痺しているというほうが正しかった。
「今日は、これくらいで勘弁してくれぬか?まだ、体が本調子ではないようだ」天一郎は、男たちに言っ
た。三人の男は互いに顔を見合わせた。
そのとき、遠くの方で人の叫ぶ声が聞こえてきた。
「・・・・だぁ!ごじらさまが・・・」その声はそう叫んでいた。
「なに?呉爾羅様!」天一郎は、すぐさま立ち上がった。だが、突然天一郎の視界がひっくり返り、気が
つくと天一郎は床の上に転がっていた。
「これは!?なんだ!?」
三人の男が天一郎を見つめていた。「おぬし等、何を・・・?」
男たちは、不安げな面持ちをしながら、天一郎を取り囲んだ。
「お、おい、ごじら様だと。どうする?」
「どうするも、こうするもねえ。あの人の言う通りにしねえと」
「とにかく、ここで待ってればいいと言われたんだ。ここにいるしかあるまい」
「しかし、ごじら様が・・・」
天一郎の体は痺れ、まったく動けなくなっていた。
浜に数人の村人が集まり、沖を眺めていた。そこには、昨夜波間に消えて行った筈の二体の呉爾羅の
姿があった。大きな呉爾羅は海上にじっとしており、時折周りに響くような鳴声を上げた。
そして、小さく活動的な呉爾羅のほうは、これも時折威嚇するような鳴声を上げながら大きな呉爾羅の
周りを回遊していた。今のところ昨夜のように浜へ上がってくる素振りは無いようだった。「首尾はどうだ?」突然小屋の外から野太い声がして、中の男達は縮み上がった。
「うむ、どうやら巧くやってくれたようだな」小屋へ入ってきた男は、床に倒れている天一郎を認めてそう
言った。男は、神楽の晩に小用を足しに森へ入った村人の前に突然現われたあの黒尽くめの男だった。
「あんたの言ったとおりにせんせいにあの粉を飲ませた。あんたの言うことを聞いたんだ。そっちはどう
なった?わし達の言う事を叶えてくれたのか?」漁師の一人が震える声で男に尋ねた。
「心配するな。私は約束は守るぞ。おい!」男が外に向かって呼びかけた。すると、別の黒尽くめの男が
小屋の中へと入ってきた。その肩に担がれていたのはたまきだった。たまきもやはり眠らされているの
か、ぐったりとしていた。
「ほら、お前達のお望みの娘だ。生贄にでも何でも好きにするといい。さあ、其の男と交換だ」
黒尽くめの男は、たまきを床の上に投げ出した。見ると、たまきの巫女装束に血の染みがあった。
「こ、殺したのか?約束が違うぞ」男が震えながら抗議した。
「殺めてはおらん。これはこの娘と一緒にいた老いぼれの血だ」
「じゃ、じゃあ、神主さんを・・・!」漁師が悲痛な声を上げた。
「では、この男は貰って行くぞ。あの化物に村のものが気を取られている間にな」男がそういうと、小屋の
中に更に三人の黒尽くめの男が入ってきた。男達は天一郎の手足を持ち、外へ運びだそうとした。
「う・・ぬ!貴様・・等!」天一郎が咽喉を絞るように声を上げた。全身が痺れてはいたが、天一郎の意識
ははっきりとしており、先程からのやり取りは全て聞こえていた。
「ほう、まだ声が出せるとは。流石、里見に其の人ありと言われた佐々天一郎高久殿だ」男が口の端を歪
めて笑った。
「貴殿に尋ねたいことが有るのでな。一緒に来て頂こう」
「誰・・・が貴・様・・等など・・・・と」しかし、天一郎の痺れた体はぴくりとも動かなかった。
「た・・まき・・」天一郎の悔しさに噛み締めた口唇から血が滲んだ。天一郎は小屋の外へと連れ出された。黒い男達は縄を取り出し、天一郎の手足を縛り始めた。
「おい」首魁らしき男が小屋のほうへ首を振った。すると二人の男が刀を抜き、小屋へと向かって行った。
「ひええ!」だが、そこで小屋の中から漁師達の魂消た声が上がった。
「何だ!?」黒い男が小屋へ足を踏み入れた。だが、男は小屋の入り口でその奇妙な光景を目にして立ち
止まった。
そこには、床に倒れたまま全身から後光の如き光を放つ少女の姿があった。少女がぱちりと眼を開けた。
少女の体がすうっと持ち上がったかと思うと、男に対峙するように起立した。
「て、天后様だあ!」「すみません、すみません!勘弁して下さい!」漁師達はたまきのその姿に恐れおの
のき後退った。
ばらばら、とたまきの腕を縛っていた縄が自然に解けて床に落ちた。
「おのれ!妙な術を!」黒い男がたまきに向かって切り掛かった。
ばんっ!という乾いた音と共に、たまきと黒い男の間に一瞬光が走り、次の瞬間、黒い男が小屋の外に弾
き出された。「なんだ?」突然、小屋の外に配下の者が転び出てきたのを見て、男が声を上げた。別な男達も天一郎を
縛る手を止めた。小屋の入り口のところに少女が姿を現した。その表情は凛として神楽の夜と同じく一点を見据えていた。
そしてその体は淡い光に包まれていた。
「正気を取り戻したか。だが、あの光は!?」首魁の男も驚きの声を上げた。たまきが右腕をすっと持ち上げた。そして、天一郎を真っ直ぐに指差した。天一郎は体の感覚が徐々に戻
ってくるのを感じた。(これは、一体!?)天一郎は心の中で驚愕した。
黒い男達は立ち上がり、たまきを包囲しようとそれぞれの位置に動き始めた。その後ろ、男達の気づかな
いうちに天一郎を縛っていた縄がこれもまたばらばらと解けた。天一郎は両手を握ったり開いたりして感覚が戻っているのを確かめた。またしても怪異に見舞われた天一
郎だが、今はその事に気を取られている時ではなかった。
黒尽くめの男達は、徐々に間合いを詰めてたまきに迫っていた。だが、たまきは小屋の入り口にじっと立ち、
自分の身に迫っている危険などまるで意に介していない様子だった。
「お前達、どっちを見ている?狙いはこの私ではないのか?」
そう言うと、天一郎は身を翻し黒い男の一人に向かって一気に駆け出した。
「うおっ!」黒い男が慌てて刀を構えようとした。だが、男の懐に飛び込んだ天一郎の掌底がその顎に見舞
われるのが先だった。
男のつま先がほんの少し地面から浮き上がると、そのまま後頭部からしたたかに地面に倒れこんだ。黒い
男達の包囲網の一部が破れた。
「おのれ、佐々!」首魁の男が天一郎に向かって吼えた。
「たまき、無事か?」天一郎は、そのまま左腕でたまきを抱きかかえるようにして小屋へと駆け入った。薄暗
い小屋の中に入ると、たまきの身体から放たれる光はよりはっきりとした。
「お前はここにじっとしていろ。よいな」天一郎はたまきにそう命じると、寝床の枕元に置かれた一振りの刀を
取った。振り返ると、小屋の隅に三人の漁師が固まり震えているのに気がついた。
「お前達!」天一郎は鋭く言い放った。
「か、堪忍してください!せんせい!」「わしら、ごじら様を一刻も早くお鎮めしようと・・!」
「たまきでなければ、ごじら様鎮めがうまくいかねえと思って・・・」漁師たちは、必死で弁解した。
「話は後で聞く!それより、たまきを護っておれ、よいな!」そう言うや否や天一郎は、裏口から外へと飛び
出した。天一郎は、月明かりで蒼く照らされた林の中へ駈け出した。ざざざっという音が後方から追ってきていた。と、
不意に横合いから殺気が迫るのを感じた天一郎は、すっと身をかわした。ついいましがた天一郎のいた場
所を刀が薙いだ。
「残念だったな!」天一郎は刀を抜きざま、男の下腹部から肩口にかけて切り上げた。黒い男は声も無くそ
の場に倒れこんだ。
そこへ、ひゅんと風を切る音と共に数本の小刀が天一郎の背後を襲った。だが、天一郎の耳はその音を聞
き逃さなかった。左手で斃れた男を掴み上げるとその骸で小刀を避け、さらにその骸を小刀の投げられた
方へと放り出した。
「何時まで私を追う!?お宝など有りはしないぞ!」天一郎は敵に呼びかけた。
だが、返事の代りに天一郎の上方から別な黒い男が襲いかかった。その刀は天一郎の利き腕を狙っていた。
天一郎はその男を見上げることなく、気配だけで男の位置を把握すると、舞を舞うように身体をかわし刀を
一閃させた。男の首と胴とが別々な場所へと転がり落ちた。二人を倒したところで、辺りを静寂が包んだ。
「二人だけ・・?よもや!?」天一郎は小屋へ引き返す為走った。小屋へ戻った天一郎が目にしたのは、三人の漁師の骸だった。
「奴等め、たまきを連れ去りおったのか!」床に漁師の血で文字が残されていた。そこには「みさきにこい」と
だけ書かれていた。
黒い男達は、林の道を岬に向かって駆けていた。その速さは、常人のそれではなかった。
「佐々めは追ってきているか?」首魁の男が傍らをたまきを抱えて走る男に尋ねた。
「あの二人が既に奴を捉えているのでは?」男がそう聞き返した。
「それならばもう合図があって然るべき。合図が無いとなると、佐々が追ってきていると思ってよい」
「では、私が」もう一人の男が首魁の男に進言した。
「いや、岬で奴を待つのだ。この娘を使えば奴も観念するであろう」首魁の男はたまきをちらと見た。
「しかし後光を放ち怪しげな術を使うとは、何者なのだこの娘は?ぜひとも江戸へ連れ帰り天海上人様に検分
をお願いせねば」
と、それまで黙って抱きかかえられていたたまきが突然顔を上げた。
「この手を離しなさい」たまきは凛として言い放った。その口調はとても島育ちの娘とは思えぬ威厳と気品を含
んでいた。男達はぎょっとし、たまきの顔を見た。
「黙っておれ。大人しく我等と共に来ればよい。今まで見たことも無いような処へ連れて行ってやるぞ」首魁の
男はあやすような口調でたまきに言った。
「あなたがたに従う謂れはありません」たまきは答えた。
「大人しくして口を噤んでおれ。従わねば子供とて容赦はせぬ」男の口調は先ほどとは打って変わって冷たく
凄みのあるものになった。
男達の走る先に林の切れ目が見えてきた。その切れ目の間に男達の仲間が焚く小さな炎がちらちらと燃える
のが見えた。
「うおっ!?」林を抜け出る手前で男達は驚愕の声を上げた。
その炎がまるで竜の如く突如天高く燃え上がったのだ。松明を持っていた男は、あまりのことにその松明を投
げ出した。だが火は消えるどころかさらに高く燃え上がり、辺りを橙色に照らし出した。「あれは!」
岬へ向かい走る天一郎の前方で、昇り竜のような炎が木立よりも高く燃え上がった。
「たまきはあそこか!」そう直感した天一郎は炎目指して疾走した。「ありゃあ何だ!?」浜に集まった村人が岬の方角を指さして叫んだ。そこには天を突くように燃え上がる一条
の炎が見えていた。
「お、鬼火だあ!」「ば、馬鹿!あんな鬼火があるもんか!」
「じゃあ何だ?竜の化身か!?」村人達は大騒ぎとなった。
「お、おい!見ろ!小さなごじら様が!」
その声に村人達は一斉に沖のほうを見た。沖に留まっていた小さな呉爾羅が、その炎に気がついたのか、岬のほうへと移動を始めていた。
大きな呉爾羅が一声吼えた。だが、小さな呉爾羅の動きは止まらなかった。
「貴様の仕業か!?娘!」首魁の男が怒鳴り声を上げた。
たまきの身体からは、またしても淡い蛍の如き光が放たれていた。
「今すぐに炎を消すのだ!さもなくば貴様もあの老いぼれや漁師のように切り捨てるぞ!」男達は刀を抜き、た
まきを取り囲んだ。
「今すぐこの島から立ち去りなさい。二度とこの島に近づいてはなりません」たまきはまったく男達を恐れていないようだった。
「きさまあ!」男の一人が刀を振り上げた。
ばしっ!という鈍い音とともにその男の顔を石礫が襲った。「がっ!」男が刀を取り落とした。
「佐々か!?」首魁の男がそう言い終わる前に、天一郎の激しい打ち込みが男に向けて放たれた。
だが、首魁の男は天一郎の剣を受け止めた。ぎいんという音と激しい火花が刀身から散った。
天一郎は打ち込みの反動を利用してすぐさま身を引いた。
「その娘を離せ!私に用があるのだろう!」天一郎は首魁の男に叫んだ。
「佐々!我らとともに江戸へ来い!そうすれば娘の命は助けよう!」
「私を江戸へ喚んで何とする?私はとうにお役目を捨てたのだぞ。今更徳川に何の用があろうか」
「貴様に無くともこちらにはあるのだ。里見安房守忠義公が貴様に託された里見の宝、その在処がな」
「そのような戯言を。近頃徳川は諸大名から金と人を集めて盛んに江戸湾を埋め立てておるらしいが、いよい
よ金策が尽きたか?そのような夢物語にまで頼るとはな」
「どちらが戯言か。里見家再興を託した財宝が房総の何処かに隠されていることは里見の家臣から聞きだして
おるのだ。そして佐々、貴様だけがその在処を知っていることもな」
「何の根拠も無い話だな」天一郎はくすりと笑って答えた。
「根拠か。貴様のその刀、忠義公から下賜された里見家の宝刀『狙公(さるひき)』と見たが、どうだ。ただの世
捨て人が持つような刀ではない事、貴様の方が判っているのではないか?」
天一郎の顔つきが急に険しくなった。
「どうだ、言い逃れはできまい」首魁の男が一歩踏み出した。
そこに、すさまじい咆吼が轟いたかと思うと、海から呉爾羅が姿を現した。呉爾羅は、天一郎と黒い男達との間に立ちはだかるように割って入った。呉爾羅の尻尾が凄まじい勢いで振り
回され、その風圧だけで男達はよろけ、ある者は倒れこんだ。
たまきを捕らえていた男も体勢を崩し、たまきを地面に投げ出した。天一郎はすかさずたまきに駆け寄ろうとした。だが、呉爾羅が天一郎の方を振り返り威嚇の声をあげた。
「くそっ!たまき、無事か!?」天一郎はたまきに呼びかけた。たまきはその呼びかけに応えたのかむくっと顔
を上げた。
そのたまきに向かって、呉爾羅が脚を踏み出した。「たまき!」天一郎が叫んだ。
と、たまきと呉爾羅との間にまたしても、一瞬光が走った。呉爾羅が天を仰いで短く声を上げ、それと同時に怯
む様に後退った。呉爾羅は何かを振り払うように、頭を左右に振った。
その呉爾羅の動きを天一郎は逃さず、たまきに向かって駈け出した。
天一郎がたまきを抱きかかえようとしたその刹那、黒い男の放ったしころが天一郎の左腕に突き立った。と、同時に天一郎とたまきとの間に数本の槍が突き刺さった。天一郎は槍をかわすため、たまきと反対の方角へ転がるしかなかった。
その槍は通常のものよりも太く、黒く漆が塗られ、一条の赤い漆が血のように引かれていた。槍の穂先も黒く塗られ、禍々しい気を辺りに放っているようだった。
「この槍は・・・!?」天一郎は何かを思い出したように低く呟いた。再び、黒い男の一人がたまきを捕らえて、そのか細い腕を捻り上げた。
「この小娘が!」男はたまきの腕を捕まえたまま、その顔を平手で殴りつけた。数回目の平手打ちでたまきの唇から血が滲んだ。だが、たまきの顔からは凛とした表情は消えなかった。呉爾羅は、先ほどのたまきから受けた衝撃から脱すると、更に怒りを増したように大きく吼え、身体に似つかぬほどの素早さで、たまきを捕らえている黒い男達目掛けて駈け出してきた。
「おのれ、化け物め!」首魁の男が合図をし、黒い男達は体勢を整えた。「血槍衆(けっそうしゅう)、五本槍!」首魁の男が次にそう合図すると、黒い男達の手に先ほど地面に突き立ったものと同じ黒い槍が現われた。「血槍衆!そうか奴らがそうだったのか!」天一郎は痛む左腕を押さえつつそう呟いた。
血槍衆、それは徳川三代に渡って仕え、陰陽道を駆使し強大な政治力を発揮した怪僧天海が密かに育て上げ
たとされる諜報・暗殺集団であった。彼等の黒い槍を見て命を永らえた者は只の一人もいないと噂され、徳川の治世に逆らおうとした者が少なからずその兇刃の前に倒されたとされていた。「呉爾羅に手を出してはいけません!」たまきが男達に向かって叫んだ。だが、男達は手に黒槍を構えると呉爾羅へとその槍を突き出した。五本の槍のうち、二本が呉爾羅の下腹部に突き刺さった。呉爾羅は凄まじい唸り
声を上げると、傷つけられた怒りを男達に向けた。尻尾が風を切って振られ男達の二人に打ちつけられた。「う、うわあ!」男達はその勢いで崖下の海へと落下していった。
「おのれえ!三本槍!」その合図に、今度は正面と左右からそれぞれ黒い男達が呉爾羅へと槍を突き出した。正面の男の槍は呉爾羅の腿に弾かれたが、左右からの槍はそのまま呉爾羅のわき腹へと突き刺さった。
四本の槍に貫かれた呉爾羅は、だが、少しもその動きを鈍らせなかった。正面の男の腕をその顎で咥えると、
走る勢いのまま、ぐいと首を捻った。
「ぎゃああ!」男の叫びと、その腕がもぎ取られるのが同時だった。
「化け物めが!」首魁の男が黒い槍を手にした。それは他の者が持つものよりも更に太く、尺も長いものだっ
た。
「おやめなさい!呉爾羅に手を出してはいけません。この呉爾羅はもう一頭の呉爾羅を護っているだけなのです!」たまきが捕らえられている手から逃れようともがきながら、首魁の男に向かって言った。
「もうしばらくすれば、二頭とも海の彼方へと戻っていくはずです。あの大きな呉爾羅のために、もう陸に上がっ
て餌を漁っていくこともしないでしょう。だから手を出さなくても良いのです」
「だまれ!」たまきが言い終わらないうちに、また男の平手打ちが飛んだ。その勢いにたまきは地面にもんどり
うって倒れこんだ。
「訳の判らん事をほざきおって」男はたまきを再び捕らえるため、たまきに向かって屈みこんだ。その背後に影のように顕われた天一郎が、男の首筋目掛けて手刀を叩きこんだ。男は「ぐっ」という妙な声を出して倒れこんだ。
「たまき!大丈夫か?」天一郎はたまきの頬に手をやり尋ねた。
「私は大丈夫です。それよりも彼等を止めて下さい。呉爾羅に手を出してはいけないのです」そのたまきの態度は、天一郎の知っているたまきのそれではなかった。
「たまき、お前は・・・?」天一郎はたまきの顔を見つめて呟いた。「受けてみろ化け物!血槍衆一本槍!」首魁の男が呉爾羅が吼えるのを目掛けて、その顎の中へ黒槍を放り
込んだ。槍は呉爾羅の咽喉の奥に突き刺さり、呉爾羅の口から槍の黒い柄が生えてい
るようになった。呉爾羅は口から槍を抜こうとしているのか、頭を激しく振り回しくぐもった声を上げた。
「今だ!五本槍!」男が配下のもの達に合図をだした。黒い男達が次々に呉爾羅の首筋目掛けて槍を突き立
てた。呉爾羅の傷口から血が迸った。「奴ら、あのような槍術を使うのか・・・」呉爾羅に深手を負わせた血槍衆の技を見て、天一郎は呟いた。
「たまき、さあ今のうちに身を隠すのだ」天一郎はたまきをそう促した。だが、たまきは天一郎の手を振り解いた。「あれでは、もう一頭の呉爾羅を怒らせてしまう」たまきは立ち上がり、身体の数ヶ所に黒い槍が突き立っ
た呉爾羅を見た。
呉爾羅は少しよろけ、短く吼えると地響きを立てて地面に倒れこんだ。「ああ、呉爾羅・・・」たまきが声を震わせた。「さあ、たまき!」天一郎はたまきの腕を掴むと強引に引っ張っ
た。だが、たまきは動かずに天一郎に振り向き言った。
「彼等があれ以上呉爾羅を傷つけないようにして下さい。せめて、新しい命が生まれるまでは」
「新しい命?」天一郎は予想だにしなかったその言葉に驚いた。倒れたままの呉爾羅は海のほうを向き、弱々しい鳴声をあげていた。その喉元にまたも黒い槍が突き刺さっ
た。
「化け物が!人間様に手を出しおって」首魁の男が呉爾羅に唾を吐きかけた。「新しい命とはどういうことだ?呉爾羅様に仔がいるというのか?」
「そうです。呉爾羅達はこの海に新しい命を産み落とすためにやってきたのです。間もなく、あの大きい呉爾
羅は仔を産み、その命を終えるでしょう」
「では、もう一頭のほうの呉爾羅は」
威厳を持って語るたまきの驚くべきその話の内容に、天一郎も左腕の痛みもしばし忘れ聞き入った。
「番いです。仔を宿した呉爾羅に養分を与えるために海や陸の生き物を狩り、危険から護り、仔が産まれ親
が死ぬと仔を護って遥かな沖へと戻っていくはずでした」
「では、呉爾羅は海の神などでは・・・」
「呉爾羅はあなたがたがこの地に姿を現す遥か以前から海に棲むものなのです」
「遥か以前・・・?どういう事だ?たまき、何故そのような事がわかるのだ?」たまきの話すことが天一郎の理
解を超えるものとなっていった。風を切る音とともに不意に天一郎たちの周りに数本の黒槍が突き立った。
「あの化け物の片はついたぞ。佐々、さあ我等と来てもらおうか!」血槍衆の首魁が、その全身に呉爾羅の
返り血を浴び、悪鬼の如き姿で天一郎たちの前に立ちはだかった。
天一郎は男に向かって居合を放とうと狙公の柄を掴んだ。が、しころを受けた左手に激痛が走り鞘を持つ手
から力が抜けた。そしてその面前に更に数本の槍の黒い穂先が突き出された。
「くっ!不覚!」狙公から手を離し、天一郎は唇を噛んだ。
「その腕、しばらく自由がきかぬぞ。これで貴様の得意とする居合も放つことは出来まい」男は凄まじい形相
で笑った。
「さあ、江戸へ参ろうか。その娘ともどもな」首魁の男が合図すると、別の黒い男が崖から下り降りて行った。
恐らくそこに舟が隠してあるのだろう。
「待て!用があるのは私だろう。その娘を巻き込むな!」
「確かに里見の宝とは関係はあるまい。だが、後光を放ち怪しげな術を使うとなれば、天海僧正様の御前へ
連れて行く価値は充分にある」
「その娘を連れて行くというなら、私はここで舌を噛み切る!里見家の財宝の在処、徳川の手には永久に渡
らぬぞ!」
「ふっ!里見家剣術指南ともあろうものがそのような無様な死に様を見せるものか」
「私は里見に殉ずる為ならば、恥を晒すことは厭わん!」天一郎は歯の間に己の舌先を挟んだ。
「貴様が死ねば、この娘にも村の者どもにも累が及ぶぞ。それでも死ねるか、佐々天一郎高久?」
黒い男の一人がまたもたまきを捕らえ、その首筋に刀の刃先をあてがった。
「もう貴様に選ぶ道など無いのだ、佐々」首魁の男が、まだ呉爾羅の血が滴る槍をたまきへと向けた。
「観念することだな」男が勝ち誇ったように言った。その時だった。倒れていた呉爾羅が長く尾を引くような声で吼えると、むくりと起きあがり、天一郎たちの方へ
迫ってきた。だが、その足取りはおぼつかず今にも地に崩れ落ちそうだった。
「まだ、生きておったか!」首魁の男は驚きの声を上げた。
血槍衆が呉爾羅に気を取られた一瞬を天一郎は逃さなかった。鞘から狙公を引き抜くと、強引にたまきの手
を取り、男の一人に太刀を浴びせ林のほうへと駈け出した。
だが、突如天一郎はわき腹に衝撃を受け、地面に転がった。わき腹に灼けるような激痛が走った。
血槍衆の首魁が放った槍が天一郎のわき腹に突き立っていた。「ちい!脚を狙ったのだがしくじった」首魁の男は天一郎の命を奪うかも知れぬ己の一撃を呪った。
里見の財宝の在処が永遠に判らなくなれば天海僧正のお叱りだけでは済むまい。男は自分の運命について
思案した。天一郎の口端から血がこぼれた。「たまき・・・、逃げろ。村へ・・・」苦しい息の内から、たまきに向かって天
一郎は言った。血槍衆が二人を囲むように迫っていた。崖の際から、男の悲鳴が上がった。黒い男達がそちらを見ると、先ほど崖下へ舟の用意をしに降りて行った
仲間が必死の形相で崖から這い上がって来ていた。見ると男の身体は粘りの有る何か得体の知れぬもので
覆われ、月明かりにてらてらと光っていた。
男は崖を登りきると、血槍衆に向かってよろよろと近づいてきた。「た、助けて・・・」男がそう言い終わらない
うちに、その身体を突如炎が包んだ。
男は火柱となって、しばらくのた打ち回った後、崖下へと落ちて行った。
「何事が起こったのだ!?」またも、呉爾羅が一声吼えた。その声に応えるように、もう一頭の呉爾羅が崖下
から姿を現した。
その呉爾羅の瞳は怒りに爛々と輝いていた。傷ついたほうの呉爾羅はその姿を見ると、地に伏し、そしてそ
のまま動かなくなった。
大きな呉爾羅は辺りを震わすほどの声で吼え、血槍衆に向かって来た。たちまち、男達はその尻尾に跳ね
飛ばされ、またある者はその脚で踏みひしゃがれた。息も絶え絶えの男達に向かって、呉爾羅の口から粘
液が吐きかけられた。と、その粘液は先ほどのように燃え上がり、男達は生きながら業火に焼かれ絶命した。「な、なんと言う・・・」首魁の男は震える手で槍を構え、大きな呉爾羅に立ち向かった。
「くらえぇ!一本槍!」男の放った渾身の一撃は呉爾羅の腕へ突き立った。
呉爾羅は槍が突き立ったままのその腕を振り上げた。呉爾羅の恐るべき力で太い槍の柄が首魁の男の身
体を一緒に跳ね上げた。
「ぎゃああ!」呉爾羅の顎がその男の身体を咥え上げた。
ぼりぼりっと男の全身の骨が砕ける音がすると、呉爾羅は首を振って襤褸切れの様になった男を吐き捨て
た。
男の身体に粘液を吐きかけると、呉爾羅はその燃え上がる様をじっと見つめていた。
流血のためにもはや天一郎に起き上がる体力は残っていなかった。手足が少しずつ冷たくなっていくのを
天一郎は感じていた。
「やはり、怒れる神なのか・・・」血槍衆を瞬く間に葬り去った呉爾羅を見上げて天一郎は呟いた。
「たま・き・・・、行け・・。私・・に構・・・わず・・・」
二人の目の前に呉爾羅が立ちはだかった。
たまきは天一郎の傍らにすっと立ち上がると、呉爾羅に向けて片手を突き出した。たまきの身体からまたも
蛍のような輝きがあふれ、全身を包んだ。
「行きなさい、呉爾羅。あなたには新しい命を生み出す役目があります」たまきは呉爾羅に語り掛けた。大きく一声吼えると、呉爾羅は海へと戻るために足を踏み出した。その歩みは先程とは打って変わって弱々
しいものになっていた。天一郎は薄れゆく意識の中、海へと戻っていく呉爾羅の、割れた瓦のような背鰭に覆われた背中を見た。そ
して、全てが暗転した。
再び天一郎が正気に戻ったのは夜明け近くだった。首を上げ、辺りを見まわすと昨夜の惨状を示すように
炭の様になった男たちの躯が転がっていた。
更に首を回そうとして、天一郎は自分がたまきに膝枕をされていることに気がついた。
たまきの手は天一郎のわき腹の傷にあてがわれており、天一郎は傷の痛みがまったくしなくなっていること
に驚いた。たまきの顔を見ると、その美しい顔に笑みをたたえ、まるで菩薩のようだ、と天一郎は思った。
「私は・・?呉爾羅様はどうなった?」
「もう、傷は塞がりました。あとしばらく安静にしていれば元の状態に戻れます。・・・呉爾羅は海へ還りまし
た」
「海へ・・・。たまき、お前は呉爾羅が仔を産みにここの海へやってきたといったが・・・」
「仔は産まれました。でも、番いの仇を討つために呉爾羅は仔への滋養分を使ってしまいました」
「滋養分?」天一郎は起きあがり、たまきの傍らへ座り込んだ。「滋養分とは何だ?」
「あの空気に触れると燃え上がる粘液、あれは本来呉爾羅が、産み落とした仔に最後に与えるものなので
す。あの滋養分によって仔は海を渡って行く力を得るはずでした」
「では、呉爾羅が産み落とした仔は・・・」
「海を渡る力を得ることは出来ませんでした。しかも、子供たちを護るはずだったもう一頭の呉爾羅も失わ
れてしまいました。今、呉爾羅の仔らは自力で海を渡れるようになるまで、海の底で卵体に包まれて眠って
います」
「海の底に。では、やがてはまたあのような呉爾羅があらわれるのか」
「それは、しばらく先の事になるでしょう。滋養分無しに、仔らが海へ泳ぎ出せるようになるまでには、遥か
な時が必要になるのですから」
「・・・たまき、何故お前はそのような事がわかるのだ?それにお前のこの不思議な力は?」
天一郎がたまきの顔を真っ直ぐに見据えて問うた。天一郎のわき腹に受けたはずの傷はすっかり塞がり、
周りの肌に乾いた血だけが残っていた。
たまきは天一郎から海へと視線を移して答えた。
「わたしは、たまきではありません。あの神楽の夜からしばらくこの娘の身体を借りているのです」
「たまきではない?身体を借りている、だと?」天一郎はその意外な答えに驚いた。
「では、お前は誰なのだ?たまきはどこへいってしまった?」天一郎の問いかけにたまきは静かに立ちあが
って答えた。
「わたしは、ずっとずっと昔、この国がまだ名前も無い頃にここへやって来ました」
「ずっとずっと昔?どこから来たのだ?海を渡った大陸か?」
「わたしは・・・、あなたがたが明けの明星と呼ぶあそこから来たのです」たまきは、天の星の一つを指差して
答えた。
「明けの明星・・・!?天女だとでも言うのか?」たまきの答えは天一郎の想像を遥かに超えていた。
「わたし、いえ、わたしたちはあなたがたと同じように明けの明星で幸せに暮らしていました。 でも、わたした
ちの故郷はある時、空の彼方からやってきた三つ首の黄金龍によって滅ぼされたのです。故郷を失ったわ
たしたちは精神(こころ)だけの存在となり、ここへと逃げてきたのです」
「私には・・・どうにも信じられん話だ・・・」天一郎は首を振って呟いた。
「わたしはこの島へ留まり、あの呉爾羅の存在を知りました。それ以来わたしはこの島への被害をできるだ
け抑えながら、呉爾羅を見てきたのです。私の力が及ばずに、これまで幾人もの犠牲を出してしまいましたが・・・」
「呉爾羅を見てきた?何故だ、村人にとってはあれは災い以外の何者でもないのだぞ。いっそ、滅ぼしてし
まったほうが・・・」
「あなたがたと同じように呉爾羅もまた、この地に生きるものです。誰も、他の種族を滅ぼす権利など持って
はいないのです。それに・・・」
「それに?」口をつぐんだたまきに天一郎は問い掛けた。
「・・・わたしたちの故郷を滅ぼしたあの黄金龍がいつかこの地にやってくるかも知れません。その時、呉爾
羅はわたしたちの希望になるかもしれないのです」
「希望・・・、あの呉爾羅が?」天一郎は明るくなってきた海のほうを見た。遥かな沖に、仔を産み、その生涯
を終えた呉爾羅が漂っているのが見てとれた。やがてその身体は、海の生き物たちの栄養となり、再び豊か
な海へとこの海を変えていくのかも知れない。
「誠に、不思議な話だ・・・。このような話、人にしても信じはすまいな。この私でさえ信じられぬのだから」沖
を見ながら呟くように天一郎は言った。
「たまきはどうなるのだ?このままそなたがたまきの身体を借りたままなのか?」
「いえ、この身体はこの娘にお返しします。わたしは今度のことで力を使い過ぎてしまいました。あなたの傷
を治すのが最後の力だったのです」
たまきは少し微笑みながら天一郎を見た。
「では、そなたはどうなるのだ?死んでしまうのか?」
「わたしは死ぬことはありません。でも、わたしがまた元のような力を取り戻すには長い時間が必要です。
そう、あの呉爾羅の仔たちが海へ泳ぎ出ることが出来る様になるくらい・・・。多分、人の一生よりも長い時
間が。それまで、姿をあらわすことはないでしょう」
たまきはそう言うと、天一郎から二、三歩遠ざかった。そして、「さようなら、ありがとう」と言うと、その場に
崩れ落ちた。
天一郎は飛び出し、地に倒れ落ちる前にたまきの身体を抱きとめた。
「たまき、たまき!」天一郎は気を失ったたまきの頬を軽く叩いた。やがて、たまきはぱちりとその眼を開け
た。
「せんせい・・・?なんでこんなところに?わたしはどうしたの?」そのたまきの口調は、元の島娘のたまきの
それだった。
「たまき・・・」それ以上の言葉が出てこない天一郎は、ただ黙ったままたまきを抱きしめた。
その日、夜が明けるとともに、村人たちが天一郎たちを捜しに岬までやってきた。神主や漁師が切り捨てら
れているのを見て心配していた村人たちは、たまきが無事なのを知って安心した。
だが、そこに一緒にいる筈の天一郎の姿は無かった。
「たまき、せんせいはどうした?一緒じゃねえのか?」村人の問いにたまきは涙を滲ませながら答えた。
「せんせいは舟に乗って、出て行ったわ。皆に迷惑をかけたと言っていたけど、何の事なの?」
天一郎は黒い男達が使うだった舟に乗り、島を離れていったという。
その後、天一郎が島に戻ることは二度と無かった。その年、大戸島を遠く離れた駿府では、将軍職を退いた徳川家康がこの世を去った。
大往生とは言えぬその死に方に、幾人かが「大戸島の海神に手を出した祟り」だと噂したが、その真偽
の程は確かめられることは無かった。やがて、大戸島の海には魚たちが戻り、元のような豊かな漁場となった。呉爾羅に纏わる怪事は村人の
親から子へと語り継がれて行った。天一郎が命懸けで守り抜いた里見の宝は、以来誰にも発見されておらず、今でも南房総の各地に財宝
伝説を残しているという。呉爾羅が産み落とした仔は、やがて姿を変え大戸島へと戻ってくるのだが、それはまた別の物語である。
「大戸島奇譚」終わり
98.7.14 祝 二十郎
補足説明いろいろ
其の壱 文中に出てくる「天后」とは本来、中国の主に広東省一帯で広く信仰されている海の神様です。
其の弐 名刀「狙公」(さるひき)とは「南総里見八犬伝」に登場する刀で、 本来は里見安房守義成の持つ刀で
す。
その他、言い訳いろいろ。
@まず、呉爾羅が吐く「大気に触れると燃え上がる粘液」ですが、これがその後の放射能火炎の元だ、という事
で一つ・・・(←弱気^_^;)。もっとも、その時点で「滋養分」という役割は失ってますが。
つまり私のゴジラは「雌の性」を持っている(いた)、と言う事ですね。
A作中に登場する呉爾羅は、ゴジラになる前の、「ザウルス」に近いものなんですが、それとも似て非なるもの、
と解釈して下さい。山根博士が説明した「水棲爬虫類が陸上型に進化する過程の生物」というのが、一番い
いかな。
B物語では触れていませんが、仔呉爾羅は2頭生まれていて、そのうち1頭は昭和29年に大戸島に帰ってく
るゴジラで、もう1頭は大阪に現れることになるゴジラと思ってください。
つまり、この話は「平成ゴジラ」とはリンクしていない(!)のです。
Cたまきの「衝撃の正体」(笑)は、「三大怪獣」の時とは違う人(?)なのかも知れません。
地球に逃げてきたのは一人とは限りませんので・・・。大戸島奇譚 上巻へ戻る TOPページに戻る